今更ながら、「時間って何だろう?」と考え込むことがある。
具体的に例を挙げるとすれば、
年齢を重ねるごとに、年月の経過を早く感じる自分と、
若い頃に比べ、傷の治り具合が遅くなったと自覚する自分が同居している不思議について
思考するといった具合だ。
同じ人間が、一方では時間を「早く」、もう一方では「遅く」捉えることがある。
「時間って、不思議なものだなあ……」
などと、物思いに耽りながらコーヒーを楽しむのも悪くない。
そこで今回は、意識しなければ普段は気にすることのない時間の不思議について、
思いつくままに綴ってみたい。
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時間という概念
「時は過ぎゆくもの」あるいは「時は流れゆくもの」としたのは、
人類の叡智としか表現しようがない。
もちろん、人が暮らすうえで必要不可欠かつ便利な「概念」であることは間違いないだろう。
四季のうつろいや、あらゆる生命の誕生と消滅など、
自然界すべての「変化」を認識するために、人類は「時間」という概念を生み出したのだ。
従って、人が時間と認識しているものは、
おそらく、実際には過ぎてもいないし流れてもいないだろう。
ただ単純に、森羅万象の変化が絶え間なく生じているだけのことと思われる。
陽は昇り、陽は沈む。
また、闇に包まれた天空では、月が満ち欠けを繰り返す。
人は生まれ、成長し、やがて老いて、自然に帰る。
普段は穏やかな川が、季節によってたまに牙をむくこともある。
このように「時間」とは、
人類が作り出した、天空と大地の「変化」を捉えるための画期的な概念なのだ。
ところで現代人は、自分でも気づかないうちに、
日々の暮らしの中で目先の時間に縛られ過ぎている気がしてならない。
それがあまりにも度が過ぎると、生きること自体が窮屈になりやすいため注意が必要だ。
なぜなら、時計が示す時刻は、
人類が作り出した「時間」という概念の中の単なる計測値でしかないからだ。
四六時中、陸上競技のトレーニングのようなことを行っていては、
心身ともに疲労するのは当然のことである。
たまには立ち止まり、人としておおらかに本来の時間と向き合ってみるのも悪くないだろう。
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時間って人により異なる?
おそらく、時間は、人それぞれに異なっていると思われる。
もちろん、現代における計測値としての時刻は、地上で暮らす限り共通であることは言うまでもない。
しかし、それはあくまでも計測値としての時刻を共有しているに過ぎない。
冒頭でも述べたように、
一人の人間の中においても、置かれた状況により時間は違ってくるのだ。
人が変われば時間が変わるのは当然のことである。
正にそこにこそ時間の不思議があると言える。
老人と子どもの時間ってこんなにも違う
老人と子どもでは、明らかに時間は異なる。
例えば、子どもの傷の治り具合は早いが、老人のそれは子どもに比べて遅い。
これは、表皮細胞の増殖(=変化)が老人よりも子どもの方が早いからである。
このことは、子どもの時間が老人の時間より早いことを物語っている。
逆に、老人の時間は子どもに比べて総じて「ゆっくり」なのだ。
人は、好むと好まざるにかかわらず、身体的な面での時間は徐々に遅くなるようだ。
筆者は、これを「身体時間」と名付けている。
もう一つ端的な例を挙げるならば、
赤ちゃんから成人するまでのご自身の顔の変化と、
成人後から四十頃までの顔の変化を比較してみて欲しい。
変化の違いは一目瞭然のはずだ。
前者の変化は劇的であるが、後者の変化は前者に比べて緩やかであるに違いない。
これはつまり、後者より前者の時間が、身体的に早かったことを示しているに他ならない。
集中すると時間って早く感じる?
好きなことに熱中していたり、何事かに集中している際の時間は早い。
それは自分の世界に入り込むことで、その開始から終了までの間、
自分を取り巻く外界の変化を認識しないことによりもたらされる。
変化を認識しないとは、すなわち、時間を認識していないのと同じだ。
そもそも、その間の時間の認識がゼロなのだから早く感じて当然なのである。
いわゆる、「ゾーン」と呼ばれる状態がこれに当たる。
また、真の瞑想状態に入った際も時間を感じなくなるらしい。
反対に、気乗りしない環境に身を置いた際などは、やたらと外界の情報をキャッチする。
言い換えるなら、自分を取り巻く
周辺の人や物事の変化を絶え間なく認識する状態にあるわけだ。
したがって、周りの変化の様子がダイレクトに時間と結びつく。
ところが、ドラマチックな変化は、身近にそうそう起きるものではない。
ゆえに、遅々とした変化に同調する時間をどうしても長く(=遅く)感じてしまうことになる。
一般に、上記のような時間感覚を「体感時間」と呼ぶ。
この「体感時間」とは、
一日の中で、集中する回数が多ければ多いほど、一日は短く(=時間を早く)、
気乗りしない環境にいる回数が多ければ多いほど、一日を長く(=時間を遅く)感じるという
もともと人に備わった不思議な時間感覚のことである。
時間って、結局のところは中身次第?
さて、筆者は既に還暦を過ぎている。
「身体時間」は、確実に「ゆっくり」に突入していることになる。
例の傷の治り具合や、四十から還暦までの顔の変化からしてもそれは明らかだ。
しかし、年齢を重ねるごとに時間を早く感じるのも確かなのである。
この場合の時間のことを筆者は、「見返り時間(=ふり返り時間)」と名付けている。
先ほどの「体感時間」とは視点が異なるのだ。
「体感時間」の視点は、足元から前向きであるが、
「見返り時間」の視点は、足元から文字通り後ろを向いている。
ここで重要なのは、
「体感時間」と「見返り時間」の関係性である。
筆者の思索の着地点は、
日々の「体感時間」の充実度によって、「見返り時間」の感じ方が変わるというものだ。
要するに、充実した日々を過ごしているかどうかによって時間の感じ方は変わるのである。
見返りの始点から終点まで、
中身がしっかり詰まっていれば、その距離感をしっかり感じ取ることができる。
ところが、肝心の中身が無ければ、
その距離に相当する時間を喪失しているため、おのずと時間を早く感じてしまうのだ。
つまり「年齢を重ねるごとに時間を早く感じる」とは、
「体感時間」の不完全燃焼を繰り返した者の単なる愚痴なのである。
年齢を重ねても、日々の「体感時間」が充実してさえいれば、
「見返り時間」の早さを嘆く暇もなくなると思うが、いかがだろう?
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そもそも時間って存在しない?
時間は、人類が生み出した「概念」であることは既に紹介した。
では、物理学の世界では「時間」をどのように捉えているのだろう?
かのアインシュタインは、次のような名言を遺している。
「過去、現在、未来の区別は、
どんなに言い張っても、単なる幻想である」
これは「時間は幻想でしかない」と言っているに等しい。
実に真理をついた名言である。
しかし、物理学の父と呼ばれるアイザック・ニュートンは、
「時間とは、何ものにも依存せず、
何ものにも止めることのできない絶対的な存在である」
として、これが長年にわたりそのまま物理学における時間の定義になった。
ニュートンの影響力は絶大であったため、
現代人の時間の捉え方は、ほとんどニュートンと同じと言って良いだろう。
すなわち、「時間の存在を決して疑わない」ということだ。
ところが、物理学の世界は、
常識と呼ばれるものをまず疑うところからスタートする。
もちろん、時間もその対象になった。
そして、最新の理論物理学においては、時間の存在がかなり曖昧なものになっている。
世間の常識として、
時間は過去から現在、そして未来の一方向に流れると信じられているが、
このことは、人間独自の錯覚であることがほぼ証明されている。
さらに、時間そのものについても、
「時間は存在しない」ことが証明される日も近いと考えられている。
今後の理論物理学の進展に期待したいものだ。
物思いに耽ると解放感が味わえる
さて今回は、時間をテーマに思いつくまま綴ってみた。
筆者も日常生活の上では、ニュートン式の時間概念で生きているのだが、
その中にあっても、極力時間に縛られない生き方を心掛けている。
たまには時計を無視して、
江戸時代以前にタイムスリップした感覚を味わってみるのも悪くないだろう。
コーヒーブレークのひと時に、
「時間って何だろう?」
と物思いに耽ってみると、ひと味違った解放感を味わえるかもしれない。
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