倭は国のまほろばたたなづく……。
と言えば、ヤマトタケルの辞世の句?
いやいや、父親の第十二代景行天皇の望郷歌では?
実は、どちらも正解なのだ。
「倭は国の まほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 倭し美し」
古事記では、ヤマトタケルの辞世の句として、
日本書記では、景行天皇の望郷歌として登場する思国歌である。
今回は、歴史ファンタジー小説執筆における取材旅行の第一弾として、
「国のまほろば探訪」計画について呟いてみたい。
柿本人麻呂と古事記
ところで、上記の歌は、
「柿本人麻呂の手によるものだ」というのが筆者の考察である。
つまり、古事記の序文こそ太安万侶の手によるが、
本文そのものは、稗田阿礼こと歌聖「柿本人麻呂」が、
挿入歌を含め創作した日本最古の傑作物語であるというのが筆者の見解だ。
そして、古事記編纂にあたり、
大和政権内の有力氏族からの横槍やプレッシャーのほか、
血で血を洗うヤマト建国から大和政権に至る多くのタブーを知り過ぎたがために、
完成後の人麻呂は、あえなく東国へ流刑となり、その地で一人寂しく亡くなったのである。
また、彼が記した古事記も、
本来なら世に出るはずのない書物であったのだが、
人麻呂の無念を間近で見ていた太安万侶が何巻かの写本を遺し秘蔵した。
その証拠に、朝廷の公式な歴史記録であるところの「続日本紀」には、
古事記に関する記事は一切登場しない。
ゆえに、後世において「偽書」という不当な扱いを受けることも度々あったほどである。
太安万侶と日本書紀
一方の日本書記は、
人麻呂の古事記と他の古史古伝を基に、太安万侶が中心となって編纂した歴史書である
というのが筆者の考察だ。
平安時代における日本書記の講書「弘仁私記」の序文には、
舎人親王と太安万侶らが詔勅を受けて編集したものであることがハッキリと記されている。
もちろん、親王が実際に執筆するとは考えられないため、
実際の執筆・編集責任者は太安万侶であったであろうことは、容易に想像がつく。
ところが、日本書記編纂に安万侶の名は一切登場しないのである。
それどころか、彼も人麻呂と同様に遠国に隔離され、
官職をはく奪された上に他家の養子とされ、東国の地で隠とん生活を送ることになる。
いわゆる、歴史から抹殺されてしまったのだ。
実は、太安万侶は初代大王「天村雲」の皇子である神八井耳の末裔であった。
太家(=王家)は、東出雲王家に繋がる血筋の由緒ある家柄なのだ。
神八井耳は、鹿島(=鹿島神宮の地)が本貫地である中臣家の始祖でもある。
つまり、太安万侶は、同族の上司であった右大臣の藤原不比等にいいように利用され、
用が済んだ後に厄介払いされてしまったのだ。
奈良市東部の山あいの茶畑から、太安万侶の墓が1979年に偶然発見された。
なお、安万侶は723年に没している。
その場所は、右大臣の藤原不比等と縁の深い土地であった。
墓からは、続日本紀に記された通りの墓誌が出土したのだ。
あまりにも出来過ぎていると感じるのは、果たして筆者だけであろうか?
国のまほろば探訪
やはり、第一弾は、ヤマト建国の地としたい。
具体的には、葛城方面から三輪山、纏向辺りまでである。
訪れる場所をグーグルマップで確認しながら、計画を立てるだけでもワクワクするのだ。
当初は、マイカー利用を考えていたのだが、
レンタサイクルの記事を発見し、便利そうだったため現在は
カラダ一つで移動する計画を立案中である。
また、どうぜなら旅気分を満喫できるよう、
徳島からフェリーで和歌山へ渡り、そこからの電車旅を検討している。
余談ではあるが、筆者の青春時代に本四架橋は存在しなかったため、四国を離れるには、
毎回フェリーや水中翼船を利用したことを懐かしく思い出す。
初日は葛城探訪へ
まずは、ヤマト建国前に出雲族が入植した葛城方面を探訪したい。
高鴨神社
京都にある賀茂神社(=上賀茂神社・下鴨神社)をはじめとする全国カモ社の総本社である。
この社と次の葛木御歳神社は、西出雲王家(=神門臣家または郷戸家とも言う)の分家が
ヤマトへ入植した際に創祀したものだ。
主祭神のアジスキタカヒコは、八代目大名持ヤチホコ(=記紀の大国主)の皇子であり、
葛城に入植したのは、アジスキタカヒコと御梶姫の子のタギツヒコである。
ここでワンポイント雑学を紹介したい。
氏姓制度が5~6世紀に確立する以前の古代では、王家ごとに敬称が存在した。
例えば、出雲王家では「臣」が敬称であり、
ニギハヤヒ(=スサノオ)を始祖とする物部王国では「宿祢」を敬称としていた。
このことを知っているだけでも、
古代氏族の系列(=出雲系なのか物部系なのか)の判別に役立つのだ。
一例として、中臣氏は「臣」の敬称を氏名に入れているほどの出雲系である。
加えて、臣(おみ)を臣(とみ)とまで読ませている。
すなわち、血筋を遡れば東出雲王家(=富家)に繋がる氏族なのだ。
ちなみに、出雲王家の敬称は、その後の氏姓制度においてもそのまま採用された。
葛城氏、平郡氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏は、「臣」の姓を持つ氏族なのだが、
この「臣」の姓は、出雲王家ゆかりの氏族にしか与えられないものであった。
葛木御歳神社
こちらも西出雲王家が創祀した社である。
主祭神を御歳神とし、相殿神が大年神と高照姫命となっている。
大年神は、ホアカリ(=スサノオ)と高照姫(=八代目大名持ヤチホコの姫)の
皇子である五十猛(=大年彦=天香語山)で間違いない。
つまり、相殿神は母と息子となっているため、本来の主祭神は高照姫の父である
ヤチホコ(=記紀の大国主)の可能性もあるのでは?
などと思わず考えてしまう。
注)古代出雲王国において「御歳神」は信仰の対象になっていたのも事実である。
鴨都波神社
この社は、東出雲王家(=富家)の分家(=登美家、磯城家)が
八代目少名彦八重波津身(=記紀の事代主)を斎祭るために創祀したものである。
葛城に入植したのは、
ヤエナツミと玉櫛姫の子のクシヒカタ、タタライスズ姫、イスズヨリ姫の兄妹だ。
タタライスズ姫は初代大王である天村雲の正妃である。
また、イスズヨリ姫は、第二代大王ヌナカワミミ(=綏靖天皇)の正妃となる。
西出雲王家(=神門臣家)の姫である下照姫を祭神としている点は解せないが、
諏訪神社の祭神であるタケミナカタトミビコを配祀しているのは、
東出雲王家であれば理解できる。
なぜなら、建御名方富彦は、八重波津身と沼川姫の子であるというのが正しい系譜なのである。
注)一般に建御名方の名で知られるこの神の正式名称は最後に富彦が入る。
これは、彼が東出雲王家(=富家)の皇子であることを示すものである。
葛城一言主神社
主祭神は「葛城之一言主大神」とされているが、
もちろん、その神は、八代目少名彦の八重波津身(=記紀の事代主)のことを指している。
もう一柱の祭神として、幼武尊があるが、これは倭王武こと第21代雄略天皇である。
記紀の説話において、一言主との関係が記されたため、後世において祭神となった。
その他の探訪予定
上記4社以外に探訪するスポットは、
高天彦神社、葛城坐火雷神社(笛吹神社)、益田岩船、牽牛子塚古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、
石舞台古墳、飛鳥寺、ミンザイ古墳、橿原神宮などなど。
自転車を使っても、一日で回り切るのは少々無理があるような気がしているのだが、
現在のところは、これらが初日のスケジュールである。
とまあ、このような具合のラフな計画なのだが、
訪問スポットごとに、どのような内容を取材するのかが鍵となるため、
そのリストアップを大いに楽しんでいるところなのだ。
なんとか1回にまとめてアップしようと思ったのだが、
あえなく撃沈してしまった。
一泊二日予定の「国のまほろば探訪」計画の二日目の予定は、
後編として次回に呟くこととしたい。