皆さんは、「大王の剣」をご存知だろうか?
ちなみに、大王は「だいおう」ではなく「おおきみ」と読んでいただきたい。
ここでの大王とは、古代の大和を治め、
その後の大和朝廷へと続く日本国の礎を築いた王たちのことである。
そして、その大和の国の王権の象徴が「大王の剣」なのだ。
筆者はかねてより、
この剣をモチーフにした歴史小説の執筆にチャレンジしている。
もちろん、不敬に当たらないよう架空の古代国家を想定した物語だ。
ゆえに、自分の中では、歴史ファンタジー小説の分野に区分している。
長い期間、そのための下調べや構想づくりを楽しんできた。
まあ、実現するかどうかは、今後のスウィング次第ではあるが、
果たしてどうなるか?
さて、その大王の剣の名を天村雲剣と呼ぶ。
またの名は、草薙剣である。
人によっては、草薙剣の方が聞き慣れた名称かもしれない。
日本人の心得として、誰でも一度はこの名を耳にしたことがあるのではないだろうか?
この剣は、代々の天皇家に継承される三種の神器の一つでもある。
今回は、その大王の剣である天村雲剣と、その剣を初めて手にした
ヤマトの初代大王について2回シリーズで呟いてみたい。
初回は「大王の剣」についてである。
もちろん、歴史ファンタジー小説を執筆するための
仮説にもとづく内容であることは、あらかじめお断りしておく。
古事記・日本書紀編纂の意図
まず初めに、天村雲剣が登場する
記紀(=古事記・日本書紀)について簡単に触れておきたい。
古事記は、神話と歴史を含む日本最古の書物である。
かたや日本書紀は、日本最古の歴史書であり正史とされている。
いずれも、時の朝廷(=当時の大和政権)が意図をもって編纂したものだ。
注)編纂の勅は七世紀、完成は八世紀である。
記紀は、各地の王家(=当時の有力豪族)に伝わる系譜や口承をたたき台として
日本の歴史の一本化を図ったものである。
では、一本化の意図はどこにあったのか?
おそらく、記紀編纂の意図は、次の3点に集約できる。
①皇統が神代から続く系譜となるように一本化を図ること
②王朝交代により断絶した系譜の一本化を図ること
③上記2点の整合性のために必要に応じて系譜の変更や説話の創作を施すこと
もちろん、当時の東アジア情勢を踏まえた国策事業であったことは間違いない。
近隣諸国に対抗するうえにおいては、
各地の王家(=当時の有力豪族)単位ではなく、
初めての「国家」を意識した、
それぞれの王家が共有できるアイデンティティの構築が急がれたのだ。
まさに、「小異を捨てて大同につく」歴史書の傑作が誕生したのである。
注)古事記の編纂には、柿本人麻呂の影が見え隠れすることを申し添えておく。
ゆえに、各王家ごとに保有していた歴史のスクラップ・アンド・ビルドこそが、
記紀編纂という大プロジェクトの最大の狙いであったと考えられる。
注)六世紀までの日本には、複数の有力な大王家が存在していた。
なぜ大王の剣の名は2つあるのか?
さて、大王の剣には、二つの名があることは既に紹介した。
天村雲剣と草薙剣である。
ところが、この神剣は、
天村雲剣ではなく、草薙剣と呼ばれることが一般的だ。
なぜか?
「そこには、ある意図が隠されている!」
というのが筆者のたどり着いた結論である。
では、その意図とは?
それは、「天村雲」という名を隠すことだ。
なぜ隠す必要があったかについては、次回に筆者の仮説を紹介したい。
事実、古事記および日本書紀の本伝においては、草薙剣として登場する。
天村雲剣の名は、
日本書紀の一書(=異伝)の一説および一伝として二度登場するのみである。
しかし、その一書のおかげにより、
剣の本来の名が、「天村雲剣」であったことが消されずに遺った。
このような記紀の誘導もあり、
一般には、草薙剣の名の方が知られることになったと思われる。
続いて、記紀に登場する「大王の剣」に関する物語を紹介してみよう。
記紀による「大王の剣」物語
八岐大蛇より奪い取った剣
天村雲剣は、日本神話で重要な役割を持つ剣である。
出雲に降り立ったスサノオが、
ズタズタに切り刻み成敗した八岐大蛇の尻尾から戦利品として奪った剣が
この天村雲剣なのだ。
ちなみに、スサノオの振るった十握剣が、天村雲剣に触れて刃こぼれしたという
逸話も記されている。
大蛇から剣を奪ったスサノオは、
その剣を高天原のアマテラスに献上する。
その後、剣はアマテラスから孫のニニギへと渡ることになる。
天孫降臨にあたり、神器の一つとして託されたのだ。
いかがだろう?
ヤマタノオロチからスサノオ、
スサノオからアマテラス、
そして天孫のニニギへと渡る天村雲剣の物語。
この剣の重要性が、物語に登場する人物だけでも十分に伝わってこないだろうか?
ヤマトタケルと大王の剣
さらに剣の物語は、ヤマトタケルが引き継ぐことになる。
ヤマトタケルは、記紀が伝える古の大英雄である。
父の景行天皇(第12代天皇)により東国討伐を命じられたヤマトタケルが、
現在の静岡県焼津において賊に襲われ火に巻かれる説話がある。
注)この説話により焼津の地名が誕生した。
その際、ヤマトタケルは、
手にしていた天村雲剣で草をなぎ倒して難を逃れたのだ。
このエピソードにより、
剣の名は、本来の天村雲剣から草薙剣に改められることになった。
以上が、記紀に記された天村雲剣の物語である。
大王の剣の本当の主は?
改めて断っておくが、ここから先の話は筆者独自の仮説である。
したがって、古事記・日本書紀を読み、
記紀にもとづく建国神話に精通している方には、ハッキリ言って「トンデモ話」に映るだろう。
しかし、記紀および他の古史古伝、
ならびに神代から続く氏族に語り継がれた口伝などを総合的に考察したうえで、
現在のところ最も腑に落ちている仮説として紹介してみたい。
大王の剣は出雲王朝の象徴だった
記紀において、スサノオが八岐大蛇を成敗して奪った天村雲剣は、
元は古代出雲王朝における王のレガリア(=王権の象徴)であった。
つまり、八岐大蛇は、古代出雲王朝を指す暗喩として用いられたのだ。
以下にその証拠をあげてみたい。
八は古代出雲を指す数字
実は、古代出雲と「八」は縁があり、古代出雲の聖数でもある。
その名残が「末広がり」として、現代でも「八」は縁起の良い数字とされる由縁だ。
例えば、「八雲立つ」という和歌の枕詞がある。
この枕詞の指す次の文句が「出雲」であることは言うまでもない。
他にも、出雲を代表する言葉に「八重垣」がある。
これは、スサノオが八岐大蛇を成敗し、
稲田姫を妻に娶った際に詠んだとされる和歌に登場する言葉だ。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」
注)通説ではスサノオの和歌としているが、本来の作者も歌の意味も通説とは異なる。
この八重垣とは、本来は、古代出雲の掟(=法律)のことを指している。
さらに、古代出雲の王の名にも「八」が多い。
初代の王は菅之八耳、二代目は八島士之身、三代目が兄八島士之身であり、
記紀の国譲り神話に登場する大国主は、八代目の八千矛といった具合だ。
注)古代出雲王朝は二王制であり、主王を大名持、副王を少名彦と呼んだ。
ちなみに、八咫烏の賀茂一族は、古代出雲王家の分家筋に当たる。
出雲から大和の葛城地方に進出した一族であり、
八代目の少名彦(=副王)であった八重波津身を祖とする一族なのだ。
そして、この八重波津身こそが、記紀に登場する事代主なのである。
注)記紀の系譜では、事代主は大国主の息子と描かれているが事実は異なる。
このように、古代出雲と「八」は、非常に縁のある数字なのだが、
その記憶は、記紀の編纂者にも残っていたことが伺える。
古代出雲の信仰
また、古代の出雲では、人格神として子孫繁栄をもたらす幸の神を信仰した。
いわゆる「縁結びと子宝の神」である。
注)この風習が、現代の出雲大社にも引き継がれている。
幸の神とは、父神のクナトの大神、母神のサイヒメの命、息子神のサルタ彦大神の
家族三神で構成され、縄文時代より信仰を集める神であった。
そして、クナトの大神は別名を岐の神、幸姫命の別名は八岐比売なのだ。
注)岐の神は、いわゆる道祖神の原型とされるとても古い神である。
さらに、古代の出雲族の人々は、人格神の幸の神以外にも、
従属神として龍蛇神も信仰した。
藁で作った竜神を木に巻きつけて拝んだり、
旧暦の十月頃、海岸に打ち上げられる海ヘビをはく製にし、
ご神体としてお祭りしていたのである。
この龍蛇信仰は、現在でも脈々と受け継がれている。
そのほか、縄文時代から受け継がれてきた自然信仰も忘れてはいなかった。
なだらかな山を子を宿した母親(=ご神体)と見立てて遥拝したり、
その山から昇る太陽をご神体として遥拝する儀式も古代出雲において継承されていたのだ。
そして、その祭祀を司るのは、王家の姫皇女たちであった。
八岐大蛇は古代出雲の暗喩
いかがだろう?
上記のとおり、八岐大蛇の「八」と「岐」と「大蛇」の
すべてが古代出雲と繋がるのである。
すなわち、記紀に登場する八岐大蛇は、古代出雲を示す暗喩であったのだ。
したがって、記紀のオロチ神話は、
大和政権の始祖であるスサノオを使って、
古代出雲王朝を滅ぼし、剣を奪い取るのが後の大和政権(=スサノオ一族)であり、
それによって、列島の西側を代表する王権が出雲から大和へ移ったことを暗示した話なのである。
おそらく、古代出雲の歴史の記憶が残る八世紀の王族や貴族たちにとっては、
ヤマタノオロチの説話が、出雲王朝の話であることは直ぐに理解できたであろう。
二つの縄文王国
実は、記紀の「天孫降臨」前の日本列島には、東と西に大きな王国が存在していた。
どちらも縄文時代後期には、既に誕生していた王国である。
ただし、当時は国家という概念はなく、
信仰や技術の伝道と、交易を中心とする人との繋がりを重視した言葉による統治であった。
ゆえに、覇権を争う戦などの無い穏やかな時代が長く続いていたのだ。
その西の王国が、古代出雲王朝(=葦原中国)である。
現在の北九州、中国地方、四国、近畿に北陸から上越に至る地域の小国がその影響下にあった。
注)考古学の銅鐸圏がほぼ古代出雲王朝の版図と重なる。
東の王国は、日高見国と呼ばれた。
現在の岐阜県や東海地方、上越を除く甲信越に関東から東北地方、さらには北海道にまでまたがる
縄文色の濃い連合王国である。
この時代、既に渡来人が流入し混血が進んではいたものの、
まだまだ縄文由来の祭り事と文化が両国には色濃く残っていた。
注)縄文時代の渡来人のことを「第一波の渡来人」と呼ぶ。
弥生の幕開け
しかし、時代の変化は、西の九州から起き始める。
九州では、新たな渡来人による小国が誕生しては、
土着の縄文人や縄文人と共存していた古くからの渡来人の国を土地から追いやり、
水源と耕作地を求めては、他の小国と衝突を繰り返すようになっていた。
見た目や言葉の違いもさることながら、人としての性質が縄文人とは全く異なり、
争いを好まない縄文人に対して、この時代の渡来人は、より好戦的であったのだ。
したがって、この時代における最大の変化は、稲作の伝来などではなく、
豊かな実りを他者から力で奪い取るための武器の流入と開発に他ならない。
注)稲作は、水田稲作も含め縄文時代には既に日本で行われていたことが判明している。
その背景の一因は、大陸における秦国(=始皇帝)による中華統一の戦争である。
戦乱により、滅んだ国の王族や貴族のほか、
多様な民族の流民が、九州を中心に出雲の地にも流れ着くようになったのだ。
注)いわゆる弥生時代の渡来人のことを「第二波の渡来人」と呼ぶ。
そして、いよいよ古事記・日本書紀で語られる「天孫降臨」の幕が上がるのである。
次回予告
次回は、
天村雲剣を受け継いだ初代のヤマト大王についての仮説を紹介する予定だ。
実際に「大王の剣」を手にしたのはスサノオではない。
また、記紀では、
なぜか剣を継承したヤマトの初代大王の名が隠されてしまった。
その辺りの記紀の意図と背景について呟いてみたいと思っている。