もっと、歩こうよ!

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「もっと、歩こうよ!」

これは、故郷にUターンしてから、

筆者が常々自身に言い聞かせている心の声である。

古の倭人(ヤマトビト)は「生きる」ために歩き、

現代の日本人は「健康維持」のために歩く。

とまあ、それは言い過ぎかもしれないが、

いずれにせよ、太古の人の一日の歩行数は、1万歩どころでなかったろうことは

想像に難くない。

かつて、かの哲人パスカルは、

「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦に過ぎない。

しかし、それは考える葦である」

 注)一般には「人間は考える葦である」で知られる名言

と、彼の遺稿集「パンセ」の中に記した。

それは、自然界における人のか弱さと、

人は、自然界において唯一「思考する」という偉大な存在であることを説いた名言でもある。

当然、筆者の大好きな「至言」の一つなのだが、

若い頃の筆者は、この哲人の言葉を勝手にアレンジして、

「人は、考える葦であると共に足を使わなくては生きてゆけない」

を信条としていた。

そこで今回は、「歩く」をキーワードに、

例のごとく珈琲人の視点で、思いつくままに綴ってみたいと思う。

地方の人ほど歩かない?

地方都市には、大都市圏のような交通網が整備されていない。

したがって、自然と車が生活の足となる。

もちろん、路面電車が市民の足となっている地方都市もあるにはあるが、

それは、例外的と言えるだろう。

故郷へUターンして、まず最初に驚いたことは、車の通行量の多さである。

一家に一台から、家族一人につき一台に変貌していたのだ。

走っている車の量は、

靖国通りに白山通り、外堀通りに明治通りのそれと遜色がない。

その分、歩く人の少なさにも驚いてしまった。

かつて、車が現在ほど普及していなかった時代、

すなわち、旧国鉄や路線バスの黄金時代を知る筆者にとっては、

寂れてしまった駅前や商店街の姿に声を失うばかりであった。

あの駅前を取り囲むように林立していた屋台には、それぞれに人が群がり、

数軒あった駅前食堂は、午後6時を過ぎるとどの店も仕事帰りの客でごった返していた。

バスターミナルには、次から次へとバスが到着し、客が乗り込むと出発前にはほぼ満席となる。

とまあ、これは筆者が小学生の頃の駅前の様子だが、

故郷を離れる時点でも、今よりはずっと賑わっていた。

いずれにせよ、現在は、家族それぞれが車を持つ時代に突入している。

そして、車が足であるからには、200m先にあるコンビニへ行くにも恐らく車を走らせるだろう。

大都市に住む人には信じられない話かもしれないが、

現在の地方都市の住人は、車を足として使うが故に

自分の足で歩くことを忘れてしまっているように見受けられる。

思考に行き詰まったら、まずは歩こうよ

ところで、適度な有酸素運動は、脳の活性化に役立つと言われている。

筆者は現役時代、考えが行き詰まるとよく歩き、その言葉が正しいことを身を持って経験してきた。

当然、ジョギングでも良いのだが、

散歩の方がお手軽だからというのが一番の理由である。

ただし、散歩とは言っても、

筆者の場合は、どちらかと言えばウォーキングに近かった。

なぜなら、およそではあるが、

1分間に100メートルのスピードをキープし、4キロから6キロほど歩くからだ。

よく利用したルートは、自宅から反時計回りの皇居一周である。

千鳥ヶ淵から半蔵門、半蔵門から桜田門へと下り、二重橋前を通過して大手門、

そして和気清麻呂像を拝みながら竹橋経由で自宅へと戻る。

ちょうど1時間のコースであった。

そして、リセットした頭で改めてPCに向かうと、

先ほどまで絡まっていた糸が解けるように、

煮詰まっていた思考が不思議とブレイクスルーするのだ。

このような経験を何度か繰り返すうちに、

「思考に行き詰まったら、まず歩け!」

と心の声が自然と物申すようになってしまった。

お目当てを持って歩こうよ

加えて、気分良く歩くには、主目的以外に何か別のお目当てがあった方が良い。

なぜなら、「思考転換」や「健康増進」というお題目だけでは、

重い腰が立ち上がらないこともあるからだ。

ちなみに、筆者の場合は、

「季節感」

を吸収することを目当てに歩いていた。

先ほどの皇居一周のコースは、

見事なまでに春夏秋冬を感じることが出来たのだ。

特に、春のサクラと秋のイチョウは、

凝り固まった思考を上書きするほどのインパクトがあった。

また、神田明神を経て湯島天神へのルートでは、

梅の花と「鳥つね」の親子丼がお目当てとなっていた。

この隠れた動機付けは、

幼い頃、母方の祖父に連れられた散歩から始まったという自覚がある。

それは、地元のシンボルである眉山(=旧以乃山)を金比羅神社口から登り、

中腹の車道をひたすら歩き続け、神武天皇像より山を寺町へと下るルートだった。

幼子には、少し厳しいコースだったが、

祖父について行くにはそれなりの理由があった。

散歩の最後に、焼きたての「滝のやき餅」をほおばることができたからだ。

祖父が必ず「和田乃屋」でお茶を飲むことを

当時の幼子はちゃんと承知していたのである。

いずれにしても、主目的以外に、

何か別の目当てを持って歩くに越したことはないと思うのだが、

欲張り過ぎだろうか?

生きるために、もっと歩こうよ

筆者は、何かにつけ考えるのが好きな性質(たち)である。

パスカルの言葉を借りれば、「思考」は人間に与えられた特権なのだ。

ただし、人は思考するだけでは生きていけない。

生きるためには、行動しなければならない。

すなわち、「思考」と「行動」は、常にセットであるというのが

若い頃からの筆者の持論となっている。

また、歩き始めることより、歩き続けることの方が難しい。

つまり、「何かを始めることよりも、それを続けることの方が難しい」とも思っている。

「石の上にも三年」とは、実に言い得て妙の故事なのだ。

ついでに、自分は

「何者なのか?」

「何をすべきなのか?」

に迷っているなら、まずはじっくり「思考」することをお勧めしたい。

すると、

「人は成りたい者に成れる」

という真理にやがてたどり着く。

逆に、事前の思考を忘れた行動は、「徒労」や「挫折」、

経済的には「損失」に繋がりやすいので注意が必要だ。

人間は「考える葦」なのだから、まずはじっくりと思考し、そして行動に移せばよいのである。

さて、話は変わるが、

ご多分に漏れず、Uターン後の筆者も車が生活の足となってしまった。

一日に4~5キロ程度は歩いていた生活から、現在では、1キロを歩きかねている状態なのだ。

もっとも、思考に行き詰まった際は、Uターン後に覚えた波乗りで気分転換を図っているわけだが、

「もっと、歩こうよ!」

という心の声が、最近はより大きく響くようになってきた。

そこで、阿波の山々に点在する「古事記(=ふることふみ)」

ゆかりの神社をお目当てに、再び歩き始めようかと考えているところである。

そう…、「思考」したからには、次は「行動」あるのみ。

ところで、皆さんは、

最近「歩き」の方がいかがだろう?