今回は、一杯のコーヒーを楽しむ雑学の一つを紹介してみたい。
要するに、「へえ」、「ほう」、「なるほど」などの相槌が返って来そうな小話のネタである。
ただし、話の半分は、筆者のボヤキが含まれることを最初にお断りしておく。
その話とは、古代史ファンを魅了してやまない「邪馬台国」についてだ。
かの「魏志倭人伝」に登場する女王卑弥呼が治めた国である。
では、その話のネタとは?
決着のつかない比定地論争
邪馬台国における最大の関心事は、その比定地にあることは云うまでもない。
九州説に近畿説のほか、最近にわかに注目を集める四国説(=阿波説)などなど、
「魏志倭人伝」を頼りに展開する比定地は、論者ごとあちらこちらに存在する。
言い換えるなら、それほど「魏志倭人伝」の行程は曖昧なのだ。
そもそも、執筆した陳寿自身が日本を訪れたことがなく、単に伝聞を記したに過ぎない。
そう、もともと「邪馬台国」に関する記述は「伝聞」であったことを忘れてはならない。
中国側(=中華思想)から見た「烏丸・鮮卑・東夷」という、
周辺の蛮族に関する補足程度の記述でしかないのである。
ちなみに、「邪馬台国」は、「東夷」の中の「倭人」という括りで登場する。
したがって、筆者は、比定地にさほど興味をそそられない。
日本における比定地を含む邪馬台国論争は、
「中国の史書を評価し過ぎているのでは?」
と感じずにはいられないのがその理由の一つである。
日本列島に、魏に朝貢した国があり、
卑弥呼と呼ばれた女王が治めた国があったという事実が確認できるだけで十分ではないか。
また、当時の日本の習俗の様子が記された貴重な資料という位置付けで十分なのではなかろうか?
それよりも、複数の史書を駆使して、
自らその読み方を誤り、迷宮に陥ってしまっていることの方が大問題と感じるのだ。
二つの史書
「邪馬台国」という国が初めて登場するのは、前述のとおり「魏志倭人伝」である。
では、その「魏志倭人伝」の原文に「邪馬台国」と記されているかと言うと、
答えは「否」なのだ。
当の「魏志倭人伝」には、「邪馬壹国」と書かれている。
これが事実である。
にもかかわらず、なぜ「邪馬台国」と表記されるのか?
むしろ、世間一般には「邪馬台国」と表すのが常識にすらなっている。
その理由は、もう一つの史書にある。
その史書の名を「後漢書」と言う。
この史書は、後漢が滅亡してから数百年後に南朝宋の范曄が記したものである。
「後漢書」は、既に存在している先史資料にもとづき執筆された史書であるため、
「魏志倭人伝」に記された「邪馬壹国」も当然のことながら登場する。
ところが、記された名は「邪馬壹国」から「邪馬臺国」に変わってしまった。
「壹」という文字が「臺」の字に変えられて記されてしまったのだ。
なぜ変わったのか?
色々な説や憶測はあるが、今となっては「不明」としか言いようがない。
実は、この「臺」の字を簡単に表した文字が「台」なのである。
したがって、「邪馬台国」は、この後漢書の「邪馬臺国」の表記を由来としている。
もちろん、歴史的には、後漢の時代の方が古く、後漢滅亡後に三国志の時代を迎える。
しかし、史書としては「魏志倭人伝」の方が「後漢書」より150年ほど古いのだ。
そして「邪馬台国」の存在を初めて記したのは、「後漢書」ではなく「魏志倭人伝」の方なのである。
なぜか日本では、「邪馬台国」に関して、
「魏志倭人伝」と「後漢書」の二つの史書を並べて論ずる風潮があることを指摘しておきたい。
それは、「魏志倭人伝」に「邪馬壹国」とあるにもかかわらず、
「後漢書」に記された「邪馬台国」に国名をすり替えて論じていることをもってしても明らかである。
ヤマタイ国という名の国は存在しない
さて、「邪馬台国」の表記の由来を紹介したのだが、読み方はいかがだろう?
ルビをふらずとも、当然のように「ヤマタイ国」と読んだのではないだろうか?
それほど、「ヤマタイ国」という誤った読み方が、世間一般に浸透してしまっていると
言わざるを得ない。
しかし、「ヤマタイ」という名の国は、古代の日本に存在しない。
少なくとも、「邪馬壹国」と記した「魏志倭人伝」、ならびに、「日本書紀」と
「古事記」に基づく限り、「ヤマタイ」という名の国は、存在しなかったと断言できるのだ。
まず、ヒミコの国を論ずるに当たり「魏志倭人伝」を用いることを否定する方はいないであろう。
ならば、「後漢書」の「邪馬台国(=邪馬臺国)」ではなく、
魏志倭人伝の「邪馬壹国」の表記を前提にして論じるべきである。
続いて日本側だが、「古事記」の国生み神話の原文には、括り文句として
「凡伊邪那岐、伊邪那美二神、共所生嶋壹拾肆嶋」
という文章が存在する。
現代語訳は、「イザナキとイザナミの二神が共に生んだ島は十四(とをあまりよつ)島」
という意を表す文章だ。
ところが、「古事記」の現代語訳しか読んでいない方は、これに気付けない。
原文に当たらなければ、知る由もない「古事記」が語る文字情報なのだ。
この「壹拾肆(とをあまりよつ)」は、やまと言葉の十四の数え方である。
正確には、「とを(10)」という「やまと言葉」の数に「壹」と「拾」の漢字を充てたのである。
ゆえに、「壹拾」で「とを」と読むのだ。
(注)やまと言葉では、1ひとつ、2ふたつ、3みつ、4よつ、5いつつ、6むつ、7ななつ、8やつ、9ここのつ、10とを、11とをあまりひとつ、12とをあまりふたつ、13とをあまりみつとなどと数える。
実は、「古事記」でもこのように「壹」という漢字を使っている点を見過ごすわけにはいかない。
古事記編纂者の太安万侶は、この「壹」という文字に「と」という読みを充てている。
これが我が国最古の書物が示す「歴史的真実」なのだ。
すなわち、「魏志倭人伝」にある「邪馬壹国」を少なくとも8世紀の日本人たちは、
素直に「ヤマト国」と読んでいたことに疑いを挟む余地はないのである。
ヤマト国という名の国は存在した
また、日本書紀の国生み神話の原文には、
「日本、此云耶麻騰」
という注釈がある。
現代語としては、「日本と書いてヤマトと言う」の意である。
この注釈も、「日本書紀」の現代語訳版しか読んだことがなければ、
恐らく気付かない点であろう。
このように、原文の文字を当たれば、有益な情報が色々と収集できるのだ。
今でこそ我が国の国名は、「日本」と書いて「ニホン」または「ニッポン」と音読みをするが、
古事記・日本書紀の時代には、「日本」と書いて「ヤマト」と訓読みしていたのだ。
「ヤマト」は、まさに「やまと言葉」そのものを表していた。
先の注釈は、「大日本豐秋津洲」の箇所で登場する。
つまり、日本書紀の「大日本豐秋津洲」の読みは、「オオヤマトとよあきつしま」と読みなさい
と言っているのである。
また、古事記では、「大倭豐秋津嶋」が対応する表記となる。
したがって、古事記にある「大倭」も「オオヤマト」と読むことが判るのだ。
ちなみに「大倭」は、「大和」に対応する。
現代では「大和」を「やまと」と読んでいるが、
本来は「大和」で「おおやまと」、「和」で「やまと」と読んでいた。
「大和」と「和」を使い分けていたのだ。
このことより、複数の国を連合した国家としての「大和」と、その連合国家の
中心的な役割を果たす「和」という国の呼び名が併存していたと推測することができる。
さすれば、中国側の史書に登場する「倭国」(本来は和国)は、
我が国では当然のごとく「ヤマトこく」と読んでいたことが容易に理解できるだろう。
ヤマトという国は、
古代より確実に日本に存在し、現代に続く日本国の礎を築いた国の呼び名なのである。
エピローグ
いかがだろう?
今回は、コーヒー一杯の雑学として、古代史における究極のテーマ「ヤマタイ国」の
雑学を綴ってみた。
もちろん、正しくは「魏志倭人伝」に登場する女王が都とする国「ヤマト国」である。
なお、「卑弥呼」は、「日皇女」「日御子」「日巫女」「日神子」など、
「ヒミコ」という麗しい音を貶めるべく、わざわざ「卑しい」という漢字を当てて記している。
このような中華思想は、現代にも脈々と受け継がれている点が実に興味深い。
まさに国柄なのだろう。
最後に、「ヒミコ」について筆者の個人的な見解を述べるならば、
「ヒミコ」は、恐らく「斎王(さいおう)」のことを指していると確信している。
特定の人物を示す名ではなく、
国をまとめる「祈り」の象徴(=祭祀者)としての名称が、「ヒミコ」だったのではないか?
「斎王」は、「斎皇女(いつきのみこ)」とも呼ばれ、未婚の皇女しかなれなかった。
また、「斎皇女」が生まれた時代と「ヒミコ」の生きた時代が重なることに注目したい。
いずれにせよ、「ヒミコ」が「斎皇女」の原形であることは間違いないと考えている。
そして「ヒミコ」は、
「当時、しのぎを削っていたいずれかの王家の系譜の中に存在する」
と考え、「古代史ロマン」の沼にハマるのは筆者に限った話ではないだろう。