今回は、黎明期のヤマト初代大王について呟いてみたい。
もちろん、歴史ファンタジー小説を執筆中の筆者の仮説にもとづく話であることは、
あらかじめお断りしておく。
また、前回の「大王の剣」が未読でれば、ぜひそちらも併せてご覧いただきたい。
前話「大王の剣」のまとめ
ちなみに、前回の要点は次の通りである。
①大王の剣の本来の名は、天村雲剣である。
ところが、古事記・日本書紀(以下、記紀とする)は、説話にもとづく
草薙剣の名を本伝に用いて本来の名を隠そうとした。
②大王の剣は、王権の象徴である。
その由来は、古代出雲王国(=縄文時代の西日本を統治した王国)
にあり、いわゆるヤマタノオロチ神話は、
王権が出雲から大和へ移ることを示唆する暗喩であった。
③記紀は、各王家に伝わる歴史を再構築したものである。
7世紀の大和政権が、白村江の敗戦と壬申の乱を受け、
初めて国家を意識して編纂したものであり、必要に応じ
各王家の系譜の変更や説話を創作して歴史の一本化を図った。
繰り返し強調しておくが、
記紀の内容を素直に信じている方には「ブッ飛んだ」仮説である。
そうした点も含めて、コーヒーのお供に楽しんでいただきたい。
古代出雲王国の統治のあり方
黎明期のヤマトと初代大王を語るには、
どうしても古代出雲王国の話は避けられない。
紀元前2世紀よりも前の時代、九州を除く列島の西半分は、
現在の出雲を中心とした連合王国が形成されていた。
いわゆる縄文時代から続く、
古代出雲族(=縄文の一部族)を中心に繁栄した王国である。
この出雲王国による統治は、
自然崇拝を根とした幸の神信仰や技術の共有化のほか、
物品の交易や、各地の首長と姻戚関係を結ぶことにより行われた。
余談ではあるが、
縄文時代は母系家族社会であり、母系の血を尊んだ点を忘れてはならない。
もちろん拝む先祖神の主は母方であり、
生まれた子は、母方の実家で育てるのが当たり前の社会であった。
このことは、出土した縄文のビーナスを見ても明らかであろう。
また、王国連合に属する各地の王や首長は、
必ず年に一度、出雲の神祭(カミマツリ)に集い、
数日かけては大いに語らい、大いに飲食し、互いに情報の交換を行った。
これが直会の由来である。
注)直会とは、神祭終了後に神饌(しんせん)と神酒(みき)を参加者で分かち合う飲食行事。
この神祭(=祭り事)の祭主は、
古より出雲王家の姫皇女が務める習わしであった。
そして「祭り」に参加した証として、
ヒメミコより「勾玉」をありがたく頂戴して帰って行くのだ。
このようにして何世代もの間、出雲王国は争いのない平和な統治を続けていた。
古代出雲の大名持と少名彦とは
ところで出雲王家では、
代々にわたり、初代の王「菅之八耳」の二人の王子の家が、
交互に王となるしきたりであった。
その家は、東出雲を治めた富家と西出雲を治めた郷戸家である。
また、主副の二王制を採り入れ、主王を大名持、副王のことを少名彦と呼んだ。
ちなみに、記紀神話に登場する
大己貴神(オオナムチ)と少彦名(スクナヒコナ)の神名は、
記紀の編纂者が、そのことを知っていて創作した神名であることが窺える。
ところが、実際の出雲王は17代存在した。
主王の大名持と副王の少名彦は、それぞれ17人ずつ実在したのだ。
このことは、古代の出雲と縁の深かった
但馬国、粟鹿神社に遺された「粟鹿大明神元記」において、
十七世神(とおあまりななよのかみ)の国津神として記録が残っている。
スサノオの系譜に入れられた大名持たち
話は変わるが、出雲王国の領土を大きく広げた第6代大名持、
臣津野の名が「出雲国風土記」に登場する。
いわゆる「国引き」を行った偉大な国津神の神様として記されているのだ。
注)「国引き」とは、領土を拡大したことを表している。
ちなみに古事記は、このオミヅヌを含め、
歴代大名持の名を意図的にスサノオの系譜に組み入れた。
その理由は、
スサノオおよびその血筋が、尊崇を集めていた出雲王国を滅亡させたという
負の歴史を隠ぺいするためである。
その目的のために、
「国譲り神話」を創作したと言っても過言ではないだろう。
それほど出雲王国の存在は大きかったのだ。
国譲り神話の部分だけを取上げれば、
ほどよく栄えた豐葦原水穂国は、
「国津神ではなく、天津神が統治することに意義がある」
とする強引な神話になっている。
しかし、語られる神話全体を俯瞰してみると、
他の神話は、すべてこの「国譲り神話」の伏線であることが分かる。
つまり、高天原から追放されたスサノオも一応は天津神なのだ。
そのスサノオの子孫から、祖神である天津神へ国を譲るという儒教的な思想を
盛り込みながら筋書を練ったことが窺える。
注)一般に儒教の伝来は、継体天皇の御代513年に百済より伝わったとされている。
その目的を果たすためには、
どうしてもスサノオの系譜に歴代大名持の名が必要だったのだ。
なお、古事記では、オミヅヌは4世孫、
国譲り神話で大国主にされたは6世孫になっている。
スサノオは作られた神名
初代大王を語るには、スサノオについても語らなければならない。
筆者は、
「スサノオという神は、記紀によって創作された神名である」
と考察している。
通常は、実在した偉人や貴い人が亡くなれば、
その人がそのまま神格を持ち神となるのが日本の人神の在り方である。
しかし、記紀の神代に登場する神々の中には、
その原則から大きくかけ離れ、変則的に登場する神々も多い。
つまり、その時代に実在した人物が該当する年代には登場せず、
いきなり神話時代にタイムスリップした神として登場したりするのである。
例えば、国譲り神話に登場するタケミカヅチが良い例であろう。
タケミカヅチは、
東出雲王家(=富家)の血筋の王族で、ヤマト黎明期の人なのだ。
実際は、記紀が伝える天津神ではなく、出雲系の国津神なのである。
ところが、スサノオは、
先の原則と変則のどちらにも当てはまらない神名なのだ。
もちろん、スサノオの神格を与えられた歴史上の人物は実在した。
ただし、その実在の人物の名前と創作されたスサノオの両方が、
記紀では時代と役柄を変えて登場するという、とてもユニークな作りになっている。
どうしてそうなったのか?
その背景は、
神代から続く皇統の一本化
という独自の編纂方針があったからである。
特にスサノオとアマテラスは、
人格および神格ともに多元的に扱われる神名のため、慎重に読み解く必要があるのだ。
その考察は、機会があれば別に呟いてみたい。
一体誰がスサノオなの?
ところで、スサノオという神名を与えられた実在の人物は誰なのか?
当然、スサノオという神名は、
後に大王となる血筋の始祖のためにわざわざ用意されたものである。
それは?
答えは、彦火明と饒速日である。
「えっ? 二人?」
と思われたかもしれないが、
ホアカリとニギハヤヒは同人異名(=同一人物)なのだ。
日本へ上陸した年次および上陸地ごとに名のりを変えたに過ぎない。
ここで注意すべきは、
スサノオの神名および神格は、同人異名の者に与えられていることから、
一人の人物単独に与えられたものではない点の理解にある。
つまり、ホアカリとニギハヤヒを始祖する後裔たちも含まれるのだ。
さらに言えば、ホアカリとニギハヤヒの後裔たちが、
後世に起こした史実をスサノオを通じて神話の世界に投影するという
非常に高度な手法により物語を創作している。
これは文学的才能を持ち、
かつ、古い歴史に精通した者でなければなし得ない芸当である。
特に古事記は、その点において最高傑作の神話・歴史書と言えるだろう。
したがって筆者は、
どうしても柿本人麻呂が古事記編纂に関わっている気がしてならないのだ。
なお、先代旧事本紀には、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
として記されており、
ホアカリとニギハヤヒが同一人物であることがしっかり示されている。
彦火明の出雲上陸
ホアカリは、紀元前219年頃に、始皇帝が治める大秦帝国を船出して、
童男・童女と技師を含む数千人の秦族(以下ハタ族)を
引き連れ出雲に上陸した。
そして、出雲王に帰順する意向と数多の宝物を献上し、
8代目大名持八千矛の姫皇女である高照姫を妃に迎え、王族の列に加わった。
注)古事記では、スサノオの娘(=スゼリビメ)を大国主が娶る逆転した話になっている。
なお、この時代は、妻の血筋が大きな意味合いを持っていた。
母系社会であり、祭主を務める出雲王家のヒメミコを妃とすることは
最上級の栄誉だったのだ。
ちなみに、高照姫の母親は、宗像三女神の次女、多岐津姫(=中津宮の祭主)である。
余談ではあるが、宗像三女神は、出雲王家から分家した宗像家の姫たちなのだ。
長女は田心姫(=沖津宮の祭主)で、七代目大名持、天之冬衣の正妃であり、
8代目少名彦八重波津身(=記紀では事代主)の母親である。
三女の市杵島姫(=辺津宮の祭主)は、
二度目に筑紫へ渡来するスサノオ(=)の正妃となる姫であった。
さて、ホアカリは高照姫との間に息子の五十猛を授かるなど、
出雲王家での地位を盤石なものにしていたのだが、彼にはかねてよりの大きな野望があった。
その野望とは、出雲王国を簒奪し、自ら王となることであったのだ。
その後、数年の時を経て、ホアカリは密かにその野望を実行に移したのであった。
ホアカリの謀反
出雲では、8代目大名持ヤチホコと、少名彦ヤエナツミの治世であった。
出雲王国が絶頂期を迎えた時代である。
ところが、それまで平穏だった出雲王国を震撼させる大事件が起きたのだ。
ホアカリが、一緒に渡来したハタ族を使い、
ヤチホコ(=記紀の大国主)とヤエナツミ(=記紀の事代主)の二人を暗殺したのである。
ゆえに、現在の出雲大社(=元の杵築大社)は、
この二人の祟りを恐れたスサノオの後裔が後世に建てた鎮めの神社であり、
出雲王家の一族が、祖先を斎祭るために創祀した神社ではなかった。
事は重大であった。
出雲王国にとっては、
二人の王が同時に亡くなったのだから、驚天動地としか言いようがない状況であった。
ところが、ホアカリにも誤算が生じた。
事故を装った暗殺計画であったが、
ホアカリの謀反であることが早々に露見してしまったのだ。
この事件により、ホアカリはやむなく出雲を出奔し、いったん秦国へ戻ることになった。
五十猛の丹波移住
ホアカリが出雲を脱出した後、残された息子の五十猛は、
母方の従姉にあたる大屋姫と共に丹波へ移住した。
もちろん、その移住には、ホアカリと一緒に渡来したハタ族も付き従った。
大屋姫は、亡くなった大名持ヤチホコの息子である味鋤高彦のヒメミコである。
西出雲王家直系の姫であった。
イソタケルは、丹波への移住を機に名を改めた。
ハタ族の海童たちの長であったため、海香語山と名のった。
これが海部家の起こりである。
現在の海部家は、丹波に鎮座する籠神社の社家である。
保有する国宝の「海部氏系図」には、始祖としてホアカリの名が記されている。
そして、カゴヤマ本人は、天香語山命として系図に名を遺している。
実は、このカゴヤマが、後のヤマト初代大王の父親なのだ。
また、カゴヤマは、長年にわたり行動を共にした大屋姫との間に高倉下を授かった。
このタカクラジこそ、後世に名門一族を輩出した紀国造家の始祖である。
ニギハヤヒ、二度目の渡来
ところで、出雲から逃亡したスサノオは、
その後、筑紫へ二度目の渡来を果たし筑秦国を建国した。
出雲での失敗を活かし、二度目の渡来時には、物部(=将兵)の一軍を率いていた。
もちろん、童男・童女と技師たちも一緒であった。
当然、スサノオの物部軍は、大陸で戦慣れしていたこともあり、とても強かった。
先住民の国や村々を討ち払い、宿願の一国の王となったのだ。
そのため、筑紫地域の遺跡からは、戦いの痕跡が多数出土する。
こうして、筑秦国を建国したスサノオは、自らを饒速日と名のったのである。
また、宗像家の市杵島姫を正妃として、と穂屋姫を授かった。
記紀は、このヒコホホデミを神武天皇の祖父(ヒコホホデミ)のモデルに使った。
これは、大変重要なことを示唆している。
つまり、天孫降臨神話の天孫ニニギノミコトが、実はニギハヤヒであることを明かしているのだ。
記紀に語られるヒコホホデミの父親は、天孫ニニギなのである。
史実のヒコホホデミの父親は、筑秦国(=筑紫国)の王ニギハヤヒ(=スサノオ)なのだ。
では、史実のヒコホホデミの孫は誰か?
それが、後の物部家の始祖となる宇摩志麻遅である。
このウマシマジの血筋は、
後世のヤマト政権における物部王朝(10代崇神天皇~13代成務天皇)に繋がる。
一方の穂屋姫は、
異母兄妹である海部家のカゴヤマ(=五十猛)に嫁ぎ、彼の正妃となり男子を授かる。
その子の名を天村雲(=海村雲)と言う。
そして、この天村雲こそが、ヤマトにおける初代大王その人なのだ。
ヤマトの初代大王と剣
ヤマトの初代大王は、天村雲である。
ゆえに、初代が手にした宝剣を「天村雲剣」と呼ぶのだ。
この宝剣は、王権の象徴であった。
なぜか?
それは、出雲王家より贈られた剣だからである。
出雲王国の権威は、それほど大きなものであった。
天村雲剣は、ヤマトの国開きに当たり、その祝いとして出雲王家より贈られたのだ。
どうして出雲王家がそのような配慮をしたのか?
その理由の一つは、村雲の血筋にある。
村雲は、母方の血筋がすべて出雲王家の姫皇女につながっていた。
母方の先祖(=血筋)を重視する出雲王国においては、
国開きしたばかりの新興国ヤマトは、身内同然の国であったのだ。
また、村雲と一緒にヤマトに入り、開拓を行った一族の影響もあった。
東出雲王家(=富家)と西出雲王家(=郷戸家)の分家一族である。
ヤマトの葛城山の東麓と南麓にそれぞれ入植したのだ。
葛城地域に古くから鎮座する神社(鴨都波神社、一言主神社、高鴨神社、御歳神社)は、
いずれも出雲の神を祭神としている。
それは、この二つの分家が、出雲の祖先を斎祭るために創祀したからである。
余談だが、古代出雲では、「神」のことを「カモ」と発音した。
このことからヤマトでは、後にこの一族のことを「カモ族」と呼んだ。
これは、出雲王家の一族が、「神族」と呼ばれていたことに由来する。
なお、両王家の分家が率いた出雲族は、数のうえで海部家のハタ族を圧倒した。
そうした力学の中で、村雲は富家(トミ家)に婿入りして初代の王になったのである。
村雲のヤマトでの正妃は、富家(トミ家)のタタライスズ姫であった。
村雲が隠された理由
ところで、記紀はなぜ村雲を初代と記すことが出来なかったのか?
そこには、そうせざるを得ない理由があったのだ。
物部家の東征
最大の理由は、大和政権として功績を無視することのできない
物部王朝(10代崇神天皇から13代成務天皇)の存在である。
注)14代仲哀天皇とされるナカツヒコ王は豊前国の地方豪族であり大和政権の本来の大王ではなかった。
実は、その物部王朝が出雲王国を滅ぼしていたのだ。
史実としては、10代崇神天皇(=イニエ大王)が筑紫で旗揚げをし、
日向の都万国で力を蓄え、月神信仰を持つ宇佐の豊国勢力と連合して東へ進行した。
注)豊国との連合は、イニエ大王が豊玉姫を正妃とすることで成立した。
実際の出雲征討軍の指揮を執ったのは、11代垂仁天皇(=イクメ大王)であった。
イクメ大王は、イニエ大王が都万国で妻に迎えた阿多津姫(=コノハナサクヤ姫のモデル)
との間に授かった皇子である。
さらに、イクメ大王は、吉備の国も征服した。
吉備国は、7代孝霊天皇(=フトニ大王)が先祖の地のヤマトを捨て、
吉備に移住して新たに建国していた国であった。
ちなみに、フトニ大王の吉備国を建国した話が、昔ばなし「桃太郎」のネタ元である。
古事記にも、フトニの息子オオキビツ彦とワカタケキビツ彦による吉備平定が記されている。
そもそも孝霊天皇(=フトニ大王)が、ヤマトを捨てた理由も
垂仁天皇(=イクメ大王)の先祖にあった。
ヤマトの豪族間における勢力争いに乗じて、
物部家の始祖であるウマシマジが、筑紫から第一次ヤマト東征を行っていたのだ。
フトニは、ヤマトの争乱を嫌気して吉備へ移住したのである。
イクメ大王の進行はそれだけに止まらなかった。
イクメはさらにヤマトまで攻め上り、
9代開化天皇(=オオヒビ大王)からヤマト王権の禅譲を受けたのである。
これを第二次物部東征と呼ぶ。
ヤマト王国は第二の出雲であった
ヤマトの初代村雲から9代オオヒビまでは、出雲色の強いヤマト王国であった。
2代綏靖天皇(=ヌナカワミミ大王)までは、
辛うじて海部家も力を持っていたが、
正妃を富家(=東出雲王家の分家で磯城家とも呼ぶ)から迎えていたため、
3代安寧天皇(=シキツヒコ大王)からは、母方である出雲の影響力が強くなった。
そこで、3代シキツヒコ大王から9代オオヒビ大王までを特に磯城王朝と呼んでいた。
その出雲色の強いヤマト王国と、本家の出雲王国の両方を物部王朝が滅ぼしたのだ。
ゆえに、初代大王を村雲とすることができなかったのである。
また、この時点では、
物部イクメ大王とヤマト磯城王朝オオヒビ大王の男系の先祖は、
同じスサノオ(=ホアカリ=ニギハヤヒ)で繋がっていた。
つまり、史実通りに歴史を書くと、後裔が先祖の同族を征討したことになるため、
記紀はそれを隠さなければならなかったのだ。
初代と10代の美称が同じ理由
したがって、記紀は、第一次物部東征のウマシマジの事績と、
第二次物部東征の10代イニエ大王と11代イクメ大王の事績を統合した象徴として
カムヤマトイワレビコ(=神武天皇)を創作し初代の大王とした。
それゆえ、村雲は隠されてしまったのだ。
また、2代綏靖天皇(=ヌナカワミミ大王)から
9代開化天皇(=オオヒビ大王)までの磯城王朝に関する事績も併せて消されてしまった。
いわゆる欠史8代と呼ばれる原因がここにある。
事実、日本書紀はそのことを示している。
初代神武天皇の美称を「ハツクニシラススメラミコト」とすると共に、
10代崇神天皇(=イニエ大王)の美称も「ハツクニシラススメラミコト」と記した。
つまり、神武天皇と崇神天皇(実際の事績は垂仁天皇を含む)が同じ人格・神格であることを
コッソリ明かしてくれているのだ。
エピローグ 登美のナガスネヒコ
余談ではあるが、
8代孝元天皇(=クニクル大王)の皇子に大彦がいた。
彼は、母親がトミ家の姫であり、自分が出雲王家の血筋であることを大変誇りに思っていた。
また、幼少期を葛城の大曽根で過ごしたことから、
中大曽根(ナカオオソネ)と字名し、自らをトミノナカオオソネヒコと称した。
この大彦こそ、最後までイクメ大王に抵抗した人物なのである。
最終的には、力尽き東国へ退くのだが、その東国で新たにクナト国を建国した。
大彦は出雲を慕っていたため、幸の神(=アラハバキ)を信仰していた。
そこで、クナト大神にちなんで国の名をクナト国と称したのだ。
いわゆる魏志倭人伝に記された邪馬壹国(ヤマトコク)と敵対したクナ国こそ、
大彦が建国したクナト国であった。
そして、最後まで物部に抵抗した大彦こそ、記紀に登場するトミノナガスネヒコなのだ。
なお、この時点のヤマトは、
宇佐の月神信仰のヒメミコを頂く物部王朝に取って代わられていた。
つまり、大彦(=ナガスネヒコ)にとっては、故国を侵略した敵の国であったのである。
以上、脱線を交えながら長編になってしまったが、
なぜヤマトの初代大王の「天村雲」が隠されたのかについて呟いてみた。
古代史に興味の無い方には、
おそらくチンプンカンプンの内容であろう。
しかし、「日本の古代史ほど面白いものはない」というのが筆者の本音である。
なお、この仮説の出雲王国とホアカリ・ニギハヤヒに関する部分は、
東出雲王家の富家に代々伝わる「出雲口伝」によっていることを最後に紹介して筆を置きたい。