マイ・ファニー・バレンタイン 其一

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ホテルのチェックインを済ませ、ひと息つくと、

夕方の5時過ぎになっていた。

東京に出てくるのは、暫くぶりである。

今回は、

大切な、とても大切な友を見送るための上京になった。

私は、上京すると、

いつも飯田橋にあるこのホテルを利用する。

大した理由はないが、あえて云うなら、長年住み慣れた西神田にほど近い場所にあるからだ。

思い出が残る東京の街はいくつかあるが、神保町界隈は、私にとって特別な街なのである。

学生時代に通い詰めた街であり、社会人としてスタートを切ったのも神保町。

そして、結婚後の子育ては、西神田で過ごした。

世間一般の基準からすると、決して住みやすい街とは言えないが、そこは「住めば都」である。

多少の不自由さを感じながらも、すっかり我が街と呼べるほど、愛着のある街になっていた。

3年前に父親が病に倒れ、

急遽、実家の製材所を引き継ぐことになり、妻と二人で郷里へ引っ越したのだが、

上京すれば必ずこの街に戻ってくるようになった。

友の訃報を受けたのは、二日前のことである。

夜の11時過ぎ、一本の電話がそれを知らせた。

携帯を手に取ると、古い友からの電話であることを告げていた。

学生時代から付き合いのある長瀬祐一からであった。

「やあ、長瀬。久しぶりだな。いつ振りだろう?

 もう、一年以上はご無沙汰になるか……。

 元気でいるかい?」

「……」

こちらの呼びかけにも、彼はしばらくの間、黙り込んでいた。

普段の彼なら、愛想のよい言葉を返してくるはずだが、

その日の彼は、様子が違った。

「長瀬、……、どうかしたのか?

 こんな時間にかけてくるなんて……、何かあったのか?」

「……」

私の呼びかけに少し間を空けてから、彼は、ようやく重い口を開いた。

「夜分にすまないね……。

 ……、お前さん、元気そうじゃないか」

聞きなれた友の声が耳元で響くが、どことなく重い空気をまとっていた。

「ああ、こっちは、どうにかこうにか元気でやっているよ。

 そっちはどうなんだい? 役員の椅子は、座り心地いいかい?」

長瀬は、昨年の春から子会社の役員に収まっている。

彼と私は、大学卒業後、同じ会社に就職した。

私生活では良き友であり、仕事上の良きライバルでもあった。

私が早期退職し、郷里へ引っ込んでからしばらくして、

長瀬から子会社へ移るという報告を受けた。

「ついに俺も用済みになっちまった……。

 詰み……ってところかな? これからは、消化試合の会社勤めになりそうだよ」

などと、彼には珍しく弱音を吐いていたことを思い出す。

本社での現役続行を望んでいた彼には、納得のいかない人事だったのだ。

「役員なんて名前ばかりさ……。

 仕事らしい仕事は、無いに等しいんだ。

 定時に出社して、毎日、定時に退社しているよ。

 それの繰り返しの日々……。

 時間を持て余して、逆に気が滅入っちまう」

「ほお。

 それは、良いご身分だ!

 ……、でも、仕事一筋のお前には、やはり辛いか……」

「……」

いつもの彼なら、本社の役員連中に対して、憎まれ口の一つでも吐きそうなものだが、

この時は、その気配を微塵も見せなかった。

「定時に退社しているってことは、三鷹の自宅からかけているのかい?」

彼の住まいは三鷹にある。

親から受け継いだ一軒家で、奥さんと二人暮らしをしている。

誰もが認める仲の良い夫婦だが、子宝には恵まれなかった。

彼が口にすることは無かったが、

我が家の子どもたちが懐いていた様子からしても、

彼が子ども好きであることは明らかであった。

「いや、家からじゃない。

 ……、神楽坂の店から、かけている……」

神楽坂の店。

それは、タイムファイブのことを指している。

私たちの間で、神楽坂の店とは、この店のことでしかない。

私たちが学生時代から親しんだ隠れ家的なジャズバーだ。

そして、長瀬がこの店を仕事で利用することは決して無い。

長瀬と私、それにもう一人、

二人の共通の大切な友にとっても特別な店であった。