マイ・ファニー・バレンタイン 其二

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そう言われて、耳を澄ましてみれば、

彼の背後から、かすかにジャズの旋律が聞こえてくる。

「そう……、タイムファイブなのか。

 それで、今夜は一人なのかい?

 それとも……」

「悦ちゃんは、居ない……。

 悦ちゃんは……、ここには居ない」

私が、その名を口にするよりも先に、悦子の名前で遮られてしまった。

雨宮悦子。

長瀬と私にとって、古くからの大切な友であり女性である。

彼女との出会いは、すなわち長瀬との出会いでもあった。

地方からの進学組であった私に対して、悦子と長瀬は、見るからに都会育ちの

垢抜けしたエスカレーター組に属していた。

慣れないキャンパスを頼りなく歩いていた私に、とびきりの笑顔を浮かべながら

声をかけてくれたのがこの二人だった。

「ねえ、あなた経済学部の新人さんでしょ?」

屈託のない彼女の満面の笑顔に、一瞬にして圧倒されてしまったことを

まるで昨日のことのように思い出す。

同じように笑顔をたたえたその時の長瀬は、まるで彼女の付人のように映った。

当時の私は、同年代の女子に対して「女の子」という印象しか持っていなかったが、

その時の悦子は、とても大人びていて、同い年とは思えない洗練された女性に見えた。

「あなたさえ良ければ、私たちがキャンパスを案内するわよ!」

そう言いながら、視線を長瀬に向け、同意を求めた。

「初めまして。私、あなたと同じ学部の雨宮悦子。

 こっちは長瀬祐一。同じ経済学部の一年生よ」

気後れしている私の様子を察して、

「私の名前はね、漢字で書くと『あめみや』とも読めるのだけれど、

 私の場合は『あまみや』だから、ちゃんと覚えておいてね」

そう言葉を続け、小さな頭を傾けながら、その大きな瞳で私の顔を覗き込んだ。

「だめだよ、悦ちゃん。

 急に声をかけられて、彼、ビックリしちゃってるよ」

悦子の後ろから、ちょこんと長瀬が顔を覗かせ、それから二人と一通りの挨拶を交わした。

今でもはっきりと記憶に残る悦子との出会い、そして、長瀬との出会いの光景である。

「そう……、一人なのか。

 こんな時間に一人で飲むなんて、珍しいじゃないか?

 悦ちゃんは、付き合ってくれなかったのか?」

そう私が投げかけると、彼はまた少し沈黙した後、

「悦ちゃんは、もう居ないんだ……。

 悦ちゃんは……、天国に召されちまった」

重苦しい、沈んだ声でそう呟いた。

思いがけないその唐突な言葉に、

「悦ちゃんが天に召されたって……、それ……、どういうことだ?」

私は反射的に問い返した。

そこからの長瀬は、嗚咽おえつがこみ上げ、言葉にならない状態がしばらく続いた。

長瀬の話によると、

悦子は、数年前から癌を患っていたこと。

自分が知らされたのも、つい最近になってからだということ。

彼女からは、私には病のことを決して知らせないで欲しいと口止めを

されていたことなどが知らされた。

また、悦子の告別式は、三日後に執り行われること。

クリスチャンである雨宮家の葬儀に関して、もろもろの注意事項などが伝えられた。

そして、長瀬が一週間ほど前に見舞った際に聞いた、彼女の最期の言葉……、

「私、後悔なんてしていないのよ。

 自分が選んだ人生だもの、これで良かったんだって……、心からそう思っているの。

 だから、あなたたち……、私のことを決して憐れんだりしないでね」

そこまで話し終えると、彼は、また声を詰まらせ、ひとしきり泣いていた。

私も溢れ出る涙を堪えきれずにいたが、声にならない声で、なんとか二日後の夜に、

タイムファイブで会う約束を交わし、その夜の電話を切ることになった。